2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。

猛暑だった2008年の夏は・・父を失った夏でした。
俳誌「ホトトギス」の同人としても活躍していた父でしたので,
多くの方が,弔句を寄せてくださいました。

弔句集を出すにあたって,あとがき用にと書いてみたのですが,
少し重苦しいか,と,使用しなかった文章です。



途切れてしまった八十一回目の夏のために

平成20年晩夏
大槻剛巳


九月の声を聞く前に、平成二十年の夏は、朝晩の涼しさと幾つかの地域の豪雨を運んできた。七月からの猛暑は挨拶として交わす「暑いですねぇ」を凌駕するほどに、ニュース報道の異常気象がいつのまにか例年のことになり、アル・ゴアが訴える地球温暖化に人類が真剣に取り組まなければならないことを如実に物語ってはいるが、日々の一人ひとりの生活の中で、プラスチックの消費を減らしても、電気を小まめに消していても、その猛暑の訪れには嘆くしかない現実である。

その夏、猛暑の最中に父「大槻弘右」は、そして俳人「大槻右城」は逝ってしまった。

多くの方々の惜しむ声が届いているのかどうか、そして残してきた医業の証と数多くの句の中から、品格高くそれでいて気持ちの襞をそっと撫ぜるような優美の似合う生業の記憶を多くの人に残したことも知らぬままに、静かに逝ってしまった。

八十回目の夏の記憶も薄れてきた秋に、自ら施した検査で疾患を見出してしまった時、それでも手術をすることで生命予後は悲惨ではないだろうと、本人も、そして家族もまた思っていた。思いたいと願っていた。診断後十日も待たずに手術を実施された際にも、術前には明らかな転移巣もなく、初診時の腫瘍の大きさに比べれば期待できる予後を、医療チームもまた感じていた。しかし、その後の再発予防のつもりの化学療法を開始する前に脳への転移が判明し、その後は放射線療法や点滴治療と転移との勝ち目の無い勝負に終始せざるを得なかったこと、そこには悔やみきれない、しかし、病魔の力を口惜しいほどに恨むしかない現実が残されていった。
それでも冬から春に掛けて、八十歳を機に医業に終止符を打った後には、病態が落ち着いた時期を過ごすことも出来、生涯の伴侶であり、また俳句の仲間でもある妻を供に、丹波や丹後の名称や名刹を訪れては、花を愛で、季節のうつろいに心を預け、俳句修行と生業としてきた医療で培ってきた愛情に溢れつつも冷静で静謐な視線に貫かれた句の想起に気持ちを浸すことが出来たこと、その僅かに短い時期ではあっても、その一瞬一瞬を掛替えのない時間と成せたことには、父を育んできた総ての人のつながりに心から感謝を捧げたいと感じている。

病気の進行は、想像を絶する。弟も共に医学医療の道に進んでいる私にも想定できなかった事態が次々と起き、やがて病室では、進まない食事や思うようにならない日常への不満と、おそらくは少しずつ姿を明らかにしてきた諦念を感じながら、時にはテレビの野球観戦や、あるいは第二句集のための選句にと、急ぎすぎているような、そのくせ緩やかに流れているような時間に、身体も心も預けていた父であった。
八十一回目の夏が猛暑と共に訪れてきた七月、担癌であることが惹起となったのか、意識の低下と共に広範囲脳梗塞の診断。少し落ち着きかけたかと思えば高熱と共に重症肺炎の宣告。家族はその終末(とき)を受け入れることを拒むように、それでも病床の周りに集まったままで、おそらくは痛みも息苦しさも感じなくなってしまった父の呼吸の音だけが規則的に響く病室で、簡易なベッドや長椅子に身を預けて、その時間が希薄に周囲へ霧消しないようにとの祈りのままに、息を潜める様にただ見守るばかりの数日間を過ごしていった。それは、既に意識の中には具現化されているような重篤な危機と背中合わせの、何故か穏やかな、和むような静かな時間であり、これまでには無かった家族四人の絆として凝縮されたものであった。祈りと願いと受容の中に、それでもいくつもの場面が想起されては消えて行き、それぞれの想いに刻み込まれていくことは、家族としての人生の証なりに、喩えようもないくらいにかけがえのない一つひとつであった。そして、その時が過ぎた後、危機の重篤さはそのままになお数日間、それぞれの家族は、それぞれの時間を過ごしていった。

平成二十年七月二十七日、日曜日の早朝の四時四十九分。母に看取られながら穏やかに安らかに、父は最期の息を終えて永遠に包み込まれていった。まだ、父にとっての八十一回目の夏は、盛りを迎えながらも、頂点を過ぎ穏やかな季節の移ろいを見せるにも至らず、ひたすらに、暑気を発散させるだけの一日の始まりの時であった。

そう、まさに猛暑の最中に父「大槻弘右」は、そして俳人「大槻右城」は逝ってしまった。

十七文字に愛惜のすべてを注ぎ込んでいただいた弔句の数々。寄せられたことの幸せと、それでもまだまだ、共に自然を愛し人の心の揺れる様を短い語句の中に留める愉しみを一緒に続けたかったであろう口惜しさは、永久への旅立ちの門出に立つ父にも届いただろう。

記憶はそれでも日常に薄まり、輝かしかったことも苦しんだことも、喜びに弾けたことも、辛さに顔をしかめたことも、家族には厳格で厳しい一面をしっかりと見せていたことも、それにもまして繋がりを持てた総ての人から寄せて頂いた言の葉の通り、柔和な笑顔と穏やかな口調もまた、次第にその瑞々しさを失いながら、いつしか結晶の様に、叶うなら多くの人々の心の片隅に静かに置かれていくのならば、ここに生前のご厚情とご支援に感謝を極める私たち家族の願いもまた、果たされていくのかも知れない。

漸く季節が次の場面を迎えつつあるこの時に、しかし父の中で途切れてしまった八十一回目の夏をひたすらに愛おしく、そして惜しむすべもなく私たちは記憶に留めていくことで、皆様への感謝としたい。

本当にありがとうございました。